진짜바로알자SCJ/日本語

새시대새청년 2009. 6. 9. 11:01

출처  http://cafe.daum.net/scjjohn/I763/47

 

本当に正しく知りましょう。聖書と新天地

 

この容は教会や聖徒の信仰知識のために公益的な目的で聖書を根として書いたものです。

また、この容は教会や聖徒たちの信仰のため「あなたがたは、正しいことは正しいと、正しくないことは正しくないと言いなさい」と仰せられたイエスの御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。

 

新天地イエス 拠幕屋聖殿

 

名を新天地イエス 証幕屋聖殿と名付けた理由について。

 

 「新天地」とは 啓示21章の新しい天、新しい地のことを指している。「イエス」とは新天地の主がイエスであることを現している。「証幕屋」とは新約の成就を証しされている場所であり、「聖殿」とは聖なる神の家と言う意味である(15:25)。

 

 地上の全ての教会は人が建て、教会の名前も人が名付けている。しかし、新天地イエス幕屋聖殿と聖徒たちは、新約聖書に預言された(1:65:9107:14)神の新しい御であり、選民である。アダムの時代から肉的イスラエルの時代であるアブラハムの時まで約2千年間、アブラハムの時代からイエスの初臨までが約2千年間、イエスの初臨から今まで約2千年間が過した。聖書の時代的なきや化を見ると、アダムの世界が終わってからノアの時代が存在し、ノアによるカナンの時代が終わった後に、イエスによる的、天の福音の種を蒔く教会時代(的なイスラエル)が存在し、この教会時代が終わった後に穫の時が迎えられ、新天地イエスの千年時代(的な新しいイスラエル)が渡する。

 

 人の戒めでえられえる、肉的なイスラエル民族はイエスの啓示の御言葉(イザ29:914、ハバ2:23、エゼ1,2,3章、マタ15:24)を聞いてもその御心を理解することが出ずに、イエスと弟子達を異端視した。

 今日、イエス約を成就させたことや比喩でえられた天の福音の種を蒔いた的なイスラエルが、七つの封印で封じられた神の書物が開かれた時に(5,6,810章)その御言葉を聞いても、御心の意を理解出ずに、啓示の御言葉をえる人を異端視している。それは、初臨再臨、同に「証する啓示」と「人の戒め」の次元が異なるからだ。

 しかし、使徒パウロが地の知識を全て捨て啓示を選んだように(ピリピ3:79)、今日の徒達も人の知識や戒めを基準とせずに、啓示の御言葉を基準とし、悟らなければ救いはない。

 

今の宗界は的な太陽星のない夜である(マタイ24:29446:1213)。どんな時期かも分からずに案じる思いで「救われた、聖を受けた、正統だ」と言っている者はりを言うのと同じだ。新約が語っている啓示の時とは一つの時代が去って行き、新しい一つの時代が創造される時である(21章)。この時、約束(5:910)通りにイエスの血によって(5:910)創造された12支派に名前が書かれることで(7章)新しい選民として救われるようになる。悟る人だけが12支派である箱舟にって救われる。

 

 新天地イエス幕屋聖殿は12支派で構成され、御心が天に成ったように地にも成る聖書通り、神の創造物である(マタ6章、21:16)。新天地の中で聖書通りでないことや、聖書の御言葉通りでないことがあるならば応対しよう。聖書を使って反論をしてみよ。それ以前に、義のために迫害されることまでもが聖書通りに成し遂げられているのだ。

約の先知者達、イエスやその弟子達が神の代言者だったように、新天地で代言している者も、神でもイエスでもなく、イエスが選ばれた末世での代言の使者である(1:222:16)。また、で語られたように開かれた啓示を受けて(10章)証された言葉によって敵に勝利し(12:11)、世の中の誰もが知らなかった(イザ29:9145:13)封じた示(啓示)の御言葉を受けて通達し、える使命者となった。博士や牧師や各教団威者達も知り得なかった事柄を、卑しく物足りない者が知っていることが彼らにとって妬みになり嫉妬であったので迫害するまでに至った。しかし、神の能力で御言葉を通達されたということを悟って神光を捧げる者が誠の信仰人である。この方の聖書の知識は世の牧師たちは想像もつかないほどに優れ、天から啓示された知識であることが分かる。これは聖書をんだことのある知識ある何万人の多くの人際に見て聞いて確認した上で話した容である。

 

示」にしてだと、神が決められた時期まで封じられた書物であった。そのに、人の戒めにだけえるしか方法がなかった。しかし、決して故意でなさったことではない。人が神博士の位を取るために、わざと無理やりに解したことは神の道理に逆らうことになり誠の理にはならない。

 もイエスも本もそれぞれたった一つのみであり、封じた書物を開いた方も一人であり、開かれた書物を受け取って証しした人も一人である(5章、10章)。書物を受け取りその容をめよ、と使命を託された方からぶことが神の御心通り行う信仰人(民、、方言、王達)である。選ばれた約束の牧師以外に、この世の中で誰(牧師)に知があり、全章の預言の意味をえられ、預言通りになった像を証してくださるのだろうか。

 

 開かれた示(啓示)の本を受けた約束された牧師の学歴及び経歴を要約すると次のようである。

彼は貧しい田の農村で育てられ、625戦争の時に入兵し戦争加した。

教会に入籍したことはなかったが、朝と夜には必ず神に祈りを捧げた。主日(日曜)にはいつも高い山に登って祈し、晩、就する前には聖書を1頁ずつむ習慣があった。普段でも彼は間に天に昇っている星が見えた。ある時、祈りの途中で、三日目の夜の星が彼に近づいてくる光景を見た。それから彼に苦難が起こり始める。それがきっかけで彼は教会へ行くようになった。彼は教会に通う最初の日に、高い山に登り血で神と約束をした。

それから彼は天の雲の中からられた主と出い、按手を受けた。「七つの教会、七人の使者に自分が見たことやこれから起こるべきことを本に書いて送れ」と言う指示を受け、手紙を書いて送り、その後には、「御使いから開かれた書物を受け取り、捕らわれているや民、方言、王達の所にえよ」という指示を受け取った。その指示を受け取ったのち、指示された所へ行き、指示通りにえ始めた。そして、敵とって勝利した時に、「12支派を創設しよ」という指示を受け、12支派を創設した。これらのこと全てが、の預言の成就の容で、を知ることのない人には、この言葉やこの出事がイエスの初臨の時と同じのように信じられないだろう。しかし、に御言葉を守る人ならば、悟って確認をし、信じることができるだろう。

 

 封じられた書物の御言葉を通達することは、2千年のきの中で一番貴重であり尊いことである。魔の神を受けている無知な者には憎まれるだろう。

自分の知識や自分の判、外見で考えるのではなく、受け取った御言葉が私達に必要である永遠の命の植物だということを理解しなければいけない。これは「太古以後 初道」(世の初めの以、初めに創造される園の道)だ。これを悟る者には永遠に生きるみ物(命の水)だろう。これらは、彼が2,3章で約束された容であり、これらをイエスから受けてえるのだ。迫害する昔の祭司長や魔のようではなく、良い心を持って良いこと、聖なることを受けるのに全力をくさなければならない。祈りが必要だ。 

 新天地イエスはノア、モセ、イエスのように天下の聖徒達のため、神に祈っている場所である。