本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。
異端と新興宗教とそれに対する誤解
異端と新興宗教の基準は何だろうか?
宗教は神様から由来したものなので、神様の御心を教えるのである。宗教(キリスト教)の経書である聖書の著者は神様であられ、宗教の教主も神様であられる。それゆえに、異端と宗教の基準は神様と聖書である。
アダムと共に居られた神様が罪を犯したアダムから離れてノアの所に行かれて共にいらっしゃった(創6章)。アダムとノア、この二人の中で誰が異端であり、誰が新興宗教であろうか?根本であられる神様とその御言葉によると、神様から離れて蛇に行ったアダム(創3章)の方が、当然異端であり、新興宗教である。根本から変ったものは、ノアでなく、アダムである。神様とその御言葉から見てノアは変った所が無い。
選民であると自慢していたアブラハムの子孫イスラエルが、アダムのように(創2:17、創3章)契約を守らなかったので(エレ31:31~34、ホセ6:7)、神様は肉的イスラエルを終わらせて(ルカ16:16)イエス様に来られた(ヨハ1:32)。これからを見ると、神様が離れた肉的イスラエルは、アダムのように神様の道ではなく、ほかの道に行ったので異端であり、イエス様は神様とその御言葉が共に居られるので、根本から変った所の無い正統であった。
イエス様によって霊的イスラエルが始まってから約2千年になった。イエス様の預言通りに(ルカ18:8 参考)、今日キリスト教世界がアダムのように変質され、まるで太陽、月、星が天から落ちて地、即ち肉に帰ったようになった(マタ24:29、啓6:12~14)。
この時イエス様の預言である啓示録通りに、御使いが現われて(啓1:1~2、22:16)彼がサタンの非真理と戦って勝利して(啓12:10~11)、啓示の御言葉を受けて(啓10章)主と共に働かれる助け主(保恵師:韓・聖)である(ヨハ14,16章)。
この助け主が伝えるのは変らない主とその御言葉である。それ故にこの助け主の教えは、新興宗教でない根本その通りのイエス教であり、異端でない正統であり、主と一つになったまことである。
つまり、主とその御言葉から離れて、他の道(非真理)に行くものが異端であり、新興宗教である。この人々から離れて主とその御言葉を捜して来て一つになった所は、正統であり、根本なのである。神様が共に居られるのか、居られないのかの証拠は、即ち神様の御言葉があるのかどうかである。世の言葉だけ教えて、非真理(毒麦の種)を教える所は、悪魔の霊と一つになった宗団であると見なければならない。
神様から離れてほかの道に行ってしまった真理のない人が(所が)、真理を言う人に迫害や批判、測り事、呪い、非難をするのは、異端であり新興宗団である。真と根本は、愛と赦しと祝福と真理のある所である。ここでの語った内容を読んで『異端と新興宗教』に対する誤解から脱して、まことの意味を悟ってほしい。言い換えると、神様とその御言葉のある所が、根本そのままの正統の宗教であり、神様とその御言葉のない所は異端であり、根本とは違う新興宗教である。罪を犯した人に対する回復も、また生まれ変る再創造も、唯一根本であられる神様が来られて創造なさる。(啓21:1~6)。
我が新天地では根本であられる神様とその御言葉が共におられる。
出所 : http://cafe.daum.net/scjschool
翻訳:ソンブクヤコブ支派のハヤニさん(번역: 성북야고보 지파 하야니님)
見直し:ヨハネ支派のホシヒメ(수정: 요한지파 호시히메)
- ありがとうございま~あす!! -
本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。
神様の使者と当時の牧者達
本文:使7:51-60
神様が遣わされた新・旧約の預言者や使徒たち、イエス様は、誰から迫害され、犠牲になっただろうか?そして、啓示録の成就の時には、どうなのか?
時代ごとに神様が選ばれ、遣わされた者は、神様の使者であり、代言者であった。この代言者を迫害して、殺した者たちは、当時の牧者と長老たちであった。このような行動をしたのは、彼らが堕落して、悪魔に属していたからである。これは、旧約でも、新約でも、啓示録の時代(イザヤから啓示録の時までの預言者や使徒たち、選ばれた牧者)にも同様であると記されている(マタ23:34~35、ルカ11:47~51、使7:51~53、啓11章)。神様と共にいらっしゃったイエス様は、四福音書でみたところ、誰と戦い、誰に迫害され、殺されただろうか?その弟子たちは誰と戦い、誰に殺されたのか?イエス様やその弟子たちも、当時の祭司と長老たちと戦い(マタ15:1~6)、彼らによって迫害され、殺された(マタ27章、ヨハ19:21~30、使7:51~60、その他、使徒の働き参考)。
啓示録での、主に仕えて立っている二人の証人(啓11章)と幕屋の人々は誰に殺されただろうか?
彼らは初臨の時のように獣すなわち悪魔と一つになった、にせ牧者たちによって迫害され、殺された。新・旧約の聖書を読んで悟った聖徒は、これが本当のことだと分かるだろう。四福音書と啓示録には、主が、代言する自分の使者を遣わされることを約束され(マタ23:39、啓22:16参考)、その代言の使者が啓示録の全章の事件を証ししてくれることを知らせた。この代言者は啓示録の全章の実像を見て、聞いて、指示を受け、伝える者である(啓1:2、啓10章参考)。しかし、この時は、天下万国(全世界)が霊的バビロンの悪魔の牧者に惑わされ、悪魔と霊的結婚を行ったときである(啓17章、18章)。この牧者と所属教徒は悪魔の教理、すなわち、淫行のぶどう酒(にせ牧者の言葉=毒麦)によって皆、酔っていたと言ったので(啓17:1~5参考)、その毒が体中に染み込んだのである。
このとき、主が遣わされた代言の使者は、そこへ進んで行き、真理で戦い(啓12:7~11)、見て聞いた啓示録の事件を証ししなければならなかった。そして、彼らのうちに植え付けられた悪魔の種や家を抜いて破壊してから、神様の種を再び植えて、神様の家として建て直し、再び生まれるようにする(エレ1:10参考)。それゆえ、捕われていた神様の聖徒たちをそこから救い出し、取り戻すために(啓18:1~4参考)、彼らと真理で戦わなければならなかった(啓17:14参考)。戦って勝利することによって啓示録2章、3章の約束を受けることになる。
地上の聖徒と真の牧者たちは、聖書を悟って、自ら悔い改め、主の使者を探し、叩き、求めなければならない(マタ7:7~8、啓3:20参考)。
地上の諸教会には、再臨のときに成就する啓示録については知る者がいなかったし、啓示録の事件は成就されていなく、神様が開かれて示されていなかったので、それを知る者もいなかった。今は、時になり(ヨハ16:25参考)、神様が啓示録の預言を成就され、それを新天地に示され、その本を開かれ、食べさせてくださり、神様の御言葉と成し遂げられたことを見て聞いたことを、諸教会に伝えなさいと(啓10章、啓22:16)証しされているのである。
啓示録はイエス・キリストの啓示であり(啓1:1)、啓示録の事件の現場で見て聞いたことを証しするのが、すなわちイエス様の証しである(啓1:2)。悪い心を捨てて、善なる心を持ち、イエス・キリストの啓示の証しを受け入れなければ、救われない(マタ11:27、ヨハ17:3参考)。新天地に来れば、啓示録に記録されている背教した七つの星の事件も(啓1:19~20、啓2・3・6章参考)、滅亡者である獣の事件も(啓13章、17章)、勝利して霊的新しいイスラエル12支派を創造したこと(啓12章、7章)も証しを受けて、見ることができる。
これは、全世界のうち、見て聞いてご指示通りに創造して証しする所は、唯一新天地だけである事を知らせるのである。聖徒が御言葉を持っていないのは、その牧者が御言葉を持っていないためであり、牧者が御言葉を持っていないのは、彼が学んだ神学校に御言葉がないためであり、神学校に御言葉がないのは、そこに御言葉の本体であられる聖霊がないためである。
新天地に御言葉と実像があるのは、神様とイエス様と真理の聖霊がおられるためである(啓3:12、啓21章参考)。水のない源では、いくら待つとしても、水が湧き出ることがないので、生命の水が湧き出る源に来て、その水を飲まなければならない。水のない源は聖徒を縛っていないで(マタ23:13参考)、生命の水がある源の所へ聖徒を行かせなければならない。もし、この時代の牧者と聖徒たちが悔い改めなければ、一人も救われることはできない。これは主の御言葉である。地獄と天国を知っている聖徒と牧者は悔い改めるはずである。
新天地が今日大きく浮上していることも、神様と御言葉と実像があるためである。
出所 : http://cafe.daum.net/scjschool
翻訳:ヨハネ支派のディュリンさん(번역: 요한지파 듀링님)
見直し:ヨハネ支派のホシヒメ(수정: 요한지파 호시히메)
- ありがとうございま~あす!! -
本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。
また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。
神様の使者と当時の牧者達
本文:使7:51-60
神様が遣わされた新・旧約の預言者や使徒たち、イエス様は、誰から迫害され、犠牲になっただろうか?そして、啓示録の成就の時には、どうなのか?
時代ごとに神様が選ばれ、遣わされた者は、神様の使者であり、代言者であった。この代言者を迫害して、殺した者たちは、当時の牧者と長老たちであった。このような行動をしたのは、彼らが堕落して、悪魔に属していたからである。これは、旧約でも、新約でも、啓示録の時代(イザヤから啓示録の時までの預言者や使徒たち、選ばれた牧者)にも同様であると記されている(マタ23:34~35、ルカ11:47~51、使7:51~53、啓11章)。神様と共にいらっしゃったイエス様は、四福音書でみたところ、誰と戦い、誰に迫害され、殺されただろうか?その弟子たちは誰と戦い、誰に殺されたのか?イエス様やその弟子たちも、当時の祭司と長老たちと戦い(マタ15:1~6)、彼らによって迫害され、殺された(マタ27章、ヨハ19:21~30、使7:51~60、その他、使徒の働き参考)。
啓示録での、主に仕えて立っている二人の証人(啓11章)と幕屋の人々は誰に殺されただろうか?
彼らは初臨の時のように獣すなわち悪魔と一つになった、にせ牧者たちによって迫害され、殺された。新・旧約の聖書を読んで悟った聖徒は、これが本当のことだと分かるだろう。四福音書と啓示録には、主が、代言する自分の使者を遣わされることを約束され(マタ23:39、啓22:16参考)、その代言の使者が啓示録の全章の事件を証ししてくれることを知らせた。この代言者は啓示録の全章の実像を見て、聞いて、指示を受け、伝える者である(啓1:2、啓10章参考)。しかし、この時は、天下万国(全世界)が霊的バビロンの悪魔の牧者に惑わされ、悪魔と霊的結婚を行ったときである(啓17章、18章)。この牧者と所属教徒は悪魔の教理、すなわち、淫行のぶどう酒(にせ牧者の言葉=毒麦)によって皆、酔っていたと言ったので(啓17:1~5参考)、その毒が体中に染み込んだのである。
このとき、主が遣わされた代言の使者は、そこへ進んで行き、真理で戦い(啓12:7~11)、見て聞いた啓示録の事件を証ししなければならなかった。そして、彼らのうちに植え付けられた悪魔の種や家を抜いて破壊してから、神様の種を再び植えて、神様の家として建て直し、再び生まれるようにする(エレ1:10参考)。それゆえ、捕われていた神様の聖徒たちをそこから救い出し、取り戻すために(啓18:1~4参考)、彼らと真理で戦わなければならなかった(啓17:14参考)。戦って勝利することによって啓示録2章、3章の約束を受けることになる。
地上の聖徒と真の牧者たちは、聖書を悟って、自ら悔い改め、主の使者を探し、叩き、求めなければならない(マタ7:7~8、啓3:20参考)。
地上の諸教会には、再臨のときに成就する啓示録については知る者がいなかったし、啓示録の事件は成就されていなく、神様が開かれて示されていなかったので、それを知る者もいなかった。今は、時になり(ヨハ16:25参考)、神様が啓示録の預言を成就され、それを新天地に示され、その本を開かれ、食べさせてくださり、神様の御言葉と成し遂げられたことを見て聞いたことを、諸教会に伝えなさいと(啓10章、啓22:16)証しされているのである。
啓示録はイエス・キリストの啓示であり(啓1:1)、啓示録の事件の現場で見て聞いたことを証しするのが、すなわちイエス様の証しである(啓1:2)。悪い心を捨てて、善なる心を持ち、イエス・キリストの啓示の証しを受け入れなければ、救われない(マタ11:27、ヨハ17:3参考)。新天地に来れば、啓示録に記録されている背教した七つの星の事件も(啓1:19~20、啓2・3・6章参考)、滅亡者である獣の事件も(啓13章、17章)、勝利して霊的新しいイスラエル12支派を創造したこと(啓12章、7章)も証しを受けて、見ることができる。
これは、全世界のうち、見て聞いてご指示通りに創造して証しする所は、唯一新天地だけである事を知らせるのである。聖徒が御言葉を持っていないのは、その牧者が御言葉を持っていないためであり、牧者が御言葉を持っていないのは、彼が学んだ神学校に御言葉がないためであり、神学校に御言葉がないのは、そこに御言葉の本体であられる聖霊がないためである。
新天地に御言葉と実像があるのは、神様とイエス様と真理の聖霊がおられるためである(啓3:12、啓21章参考)。水のない源では、いくら待つとしても、水が湧き出ることがないので、生命の水が湧き出る源に来て、その水を飲まなければならない。水のない源は聖徒を縛っていないで(マタ23:13参考)、生命の水がある源の所へ聖徒を行かせなければならない。もし、この時代の牧者と聖徒たちが悔い改めなければ、一人も救われることはできない。これは主の御言葉である。地獄と天国を知っている聖徒と牧者は悔い改めるはずである。
新天地が今日大きく浮上していることも、神様と御言葉と実像があるためである。
出所 : http://cafe.daum.net/scjschool
翻訳:ヨハネ支派のディュリンさん(번역: 요한지파 듀링님)
見直し:ヨハネ支派のホシヒメ(수정: 요한지파 호시히메)
- ありがとうございま~あす!! -