本当に正しく知りましょう。聖書と新天地
この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。 また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。
雲に乗って来られるイエス様、突き刺した者たち、彼の故に嘆く地上の諸族
本文:啓1:7
引用聖句 : 使徒1:9~11、マタ24:31、ヨハ16:10、マタ23:39、啓10章
啓示録1章1~8節は、啓示録の全章を要約した結論である。本文(7節)は、その中の一つの聖句である。
雲は見えないように包むもので、雲に乗って来られるイエス様は、霊で来られるのを意味する。使徒行伝1章9~11節で雲に包まれてイエス様が見えなくなられた時、『見た時と同じ有様でまたおいでになります』と御使いが言った。マタイの福音書24章31節の御使いと共に来られるイエス様は、27節にいなずま(霊)のように来ると言われて、ルカの福音書17章22~24節には、いなずまのように来られるので見られないと言われた。ヨハネの福音書16章10節には、『私が父のもとに行き、あなたがたはもはや私を見なくなる』と言われた。使徒ヨハネは啓示録1章で、霊でイエス様を見た。雲に乗って来られる方は、イエス様であり、イエス様の御名によって来られる方は、啓示録10章の御使いであった。
イエス様はマタイの福音書23章39節に『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。とあなたがたが言うときまであなたがたは今後決して私を見ることはありません』と言われた。主の御名によって来られる方は、ヨハネの福音書14章26節の真理の聖霊、保恵師(助け主:旧、聖)であり、この聖霊は人のうちにおられる(ヨハ14:17)と言われた。主の御名によって来られた保恵師が、そのうちにおられるその人が、即ち『主の御名によって来られる方』であり、その人を見ることが、即ち主の御名によって来られた方を見るのである。マタイの福音書17章10~13節とマタイの福音書11章14節に、エリヤの名によって来たバプテスマヨハネを見ることが、即ちエリヤを見るのである。ヨハネの福音書5章43節とヨハネの福音書14章8~11節と、ヨハネの福音書12章44~46節のイエスは、父の御名によって来られた。父はイエスのうちに臨まれて、このイエスを見るのが、即ち父を見るのであったし、イエスを信じるのが、即ち父を信じるのであった。また、神様とイエス様と天国が『勝利者』に臨まれて(啓3:12)、勝利者はイエス様の御座に共に着かれる(啓3:21)と言われた。それ故に、雲に乗って来られるというのは、雲に包まれて見られないように、『霊によってこられること』を言うのである。
雲に乗って来られる主を見ることは、主の御名によって来られた保恵師の聖霊と一つになった人を見ることである。もちろん、当時のイエス様を突き刺した者たちの霊が再び来られるイエス様の霊を見るだろう。どころが、本文の意味は初臨の時神様の霊と一つになったイエス様を突き刺した者が、即ち神様にした者(ヨハ15:23参考)であるように、啓示録11章の主の御名によって来られた方、即ち主のそばに立つ者(ゼカ4章参考)を突き刺した者が主を突き刺した者になるという意味になる。本文の『地』は、啓示録13章8~10節の地を言ったのであり、アダムの時、ノアの時、イエス様初臨の時と同じように、天に属した太陽、月、星(創37:9~11参考)のような選民が地に落ちて滅ぼされた肉たちを言う。
(地上の諸族が彼の故に嘆くというのは)申命記32章のモーセの歌のように、またエレミヤ全章の事件に対する哀歌のように、今日啓示録の主が再び来られる事件の前兆として、滅亡されて霊的異邦のバビロンに捕われている選民の悲しむなげきである。この死んだ霊たちのために、主のそばに立っている者が、荒布を着て悔い改めるようにしたが、死者たちがどう知るだろうか。今日、霊的シオン山(啓14章)によって救われた者以外に収穫されなかった者たちは、みな嘆く者になる。これは啓示録11章の二人の証人が死んで嘆くのでなく、終りの時に背教によって天から地に落ち、異邦に捕われて死んだ自分の霊が主の御名によって来られた者を信じられなかった嘆くその嘆きである。
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